YMOを観た。
中学生の時、YMOというグループの作品に初めて触れた時には、すでにグループは散開していた。
間もなく、突然「再生」したかと思うと、「TECHNODON」というミニマルなアルバムを発表してそしてまた沈黙した。
記憶が定かではない。もしかするとYMOの音楽に触れたのは「TECHNODON」が切っ掛けで、そこから遡るように過去の作品を掘り起こしていったのかも知れない。
このアルバム制作の過程をとらえたドキュメンタリー内容の本を、俺は何度も繰り返し読んで、ウイリアム・バロウズという人の事を知ったり、ジェニー・ホルツァーという人の言葉の意味を考えたり、ブレードランナーという映画について興味をもったりした。
何より、音楽作品を制作するにあたって、背景となる思想やディテールへのこだわり、アートワーク全体のコンセプト、それら全てをミニマルミュージックに反映させようとする姿勢に、何とも言えない刺激を受けた。
そして、山本耀司のデザインやニューヨークという街に想いを巡らせた。
しかし、知らない間にその「再生」の盛り上がりもどこかへ消えてしまっていた。
テクノミュージックは次の世代にバトンが渡され、次々に出てくる刺激的なサウンド、DJ達が過去を更新していった。
結局俺は一度もYMOのパフォーマンスを観る事なく、YMOの存在を忘れていた。
だからYMO名義でフジロックへの出演がアナウンスされた時に、俺の中で忘れていたものが突然思い出された。
これは観ておくべきだろうなと感じた。
布石はなんとなくあった。
昨年知り合えた先輩のギタリストから、突然YMOの影響を指摘され、自分では全く思ってもみなかったことだったが、懐かしく思って聞き返していた。
それに伴って、前述したドキュメンタリーの本を読み返したりもしていた。
そこに書かれていた内容は、中学生の時点では単なる未知への憧れだったが、今となってはより具体的に共感できるものとなっていたことにも気付いた。
自分の音楽に直接的な関わりがあるかどうかは分からないが、彼らの活動が、今の自分に繋がる一部を形作ってきたのは事実である。
結局のところ、フジロック行きを断念してしまった俺は、観なかった事で後悔するのを恐れた。
そして、YMO主催の野外フェス、world happiness 2011に、YMOを観るためだけに訪れたのである。(実際のところはYUKIとTOWA TEIのDJも観れた。TOWAについて語るべきことも沢山あるけれど、割愛)
演奏曲目を追った詳細な解説は控えることにする。
俺が現在のYMOのライブを観て感じた事。
・こういう種類の音楽は音が拡散してしまう野外より屋内の方が良いだろう。シンセサイザーで作り出した流麗なコードワークは会場後方に届く前に、立ちこめる雲のようにぼやけたものになってしまう。
・YMOの三人は大変優れた作曲家であり、音楽家ではあるものの、優れたパフォーマーとは言い難い。少なくとも現在のYMOの演奏においては。演奏家のカタルシスがオーディエンスの熱狂に直接的に繋がっていると実感。それを一瞬垣間見せてくれたのは、小山田圭吾の「千のナイフ」あたりでのギタープレイ。
・しかしその小山田圭吾を含めたサポートの演奏がYMOの音楽的魅力を正確に伝えていたかどうかは微妙。演奏力は勿論素晴らしい。しかしそもそも彼らのライブパフォーマンスは、演奏できるのにしない、あえてエレクトリックドラムを使用する、などといった抑制の中に魅力があるような気もするので、多くの部分を生楽器の演奏で再現してしまうと、緻密さが損なわれたような気がした。
・歌の力、というのは絶大なものがある。これは一番の強烈な発見かも知れない。YMOに「歌」が無かったからこそ感じたことである。
以上、批判的視点での省察。
そして今後の自分のためのメモ。
反面、素晴らしかった部分はとてもとても沢山あるが、此処には書かない。
俺、YMO観るためだけにフェスのチケット代全部払ったんです。
観た人だけが味わったものにしておきましょう。
アンコールの「東風」のイントロにはやはり鳥肌立ちましたよ。そういうこととか。
ss
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