"I kissed goodbye the the howling beast on the borderline which separated you from me"
こんなラインが、Bob Dylanの1975年のアルバム「Blood On The Tracks」の中の「Idiot Wind」という曲にあります。
手元にある片桐ユズル氏の訳詞によると、この一節は「おれはキスをする ほえる動物それはきみとおれを分ける国境線上にある」となっています。
言語が文化を作ったのか、文化の差異が言語の成り立ちを変えていったのか、専門家ではないのでそれは分かりませんが、少なくとも言語はそれを用いる人々の文化、精神性を如実に反映するものであることは事実です。
そのために、異言語間の完全な翻訳ということは有り得ない、なぜなら異なる二言語間には異なる二つの文化という大きな隔たりがあり、その精神性を補完する適切な「記号」を持たないだけでなく、その精神性自体を持たない場合があり得るからです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/シニフィアンとシニフィエ
よく言われる例としては、日本語の「ごちそうさま」に該当する英語は無い、というもの。これは、食事の後に言うべき英語が無いということでは勿論無く、「ごちそうさま」という精神性が英語圏の文化には無いという事だそうです。
Anyway。
ある言語を他言語に翻訳するということは、このように単語一つをとっても非常に難しいことであり、その上、詩などの芸術表現ともなれば、正確な置き換えは不可能といえるでしょう。
こうして、冒頭のラインに対する前述の訳詞は英語詩の一つの美しい解釈であることを前提として話を進めたいと思います。
僕が冒頭のDlyanの一節を読んで気になったのは、"borderline"という言葉の捉え方です。
辞書を引けば直ぐに出てくる日本語は勿論、「国境線」「境界線」という単語。では、この訳において「国境線」を「境界線」に置き換えて考えてみるとどうなるでしょうか。
「おれはキスをする ほえる動物それはきみとおれを分ける国境線上にある」
↓
「おれはキスをする ほえる動物それはきみとおれを分ける境界線上にある」
この二つの訳文、異なる部分は漢字二文字分しかありません。しかし、この二つの文章から受け取るイメージはかなり異なるものではないでしょうか。
上の文章では、広大な褐色の大地に暗黙の内に人間によって引かれた、領土を分かつ線があり、その線上をコヨーテのような動物が一匹無愛想に地面に視線を落として歩いている。Dylanの示唆する「おれ」と「きみ」は別々の国からやってきた人間で、お互いの相入れなさを、動物的な叫びでしか表現できないような、そんなイメージが広がらないでしょうか。
しかし、下の文章となると少し様子は変わってきます。
まず、「境界線」という日本語には、国と国の領土を分ける線というイメージは殆どありません。そこにあるのは、もっと単純にある物とある物を分かつ線という感覚。もっと汎用性の高い言葉です。
「きみとおれを分ける境界線」と読んだ日本人は、おそらく殆ど国境線のような物質的ラインではなく、何かしらの精神的な隔たり、もしくはそれを暗喩するための物質的な線を真っ先にイメージするのではないでしょうか。
こうなってくると、ここにはコヨーテの介入する隙間は無くなってきます。コヨーテに代わって「ほえる動物」に導かれるのは、よりパーソナルな語り手自身であったり、もしくは「きみ」と呼ばれる相手のことかもしれない、もしくは二人の間に巣食う拗れた感情のことかもしれない。
いずれにしても、「境界線」と書かれることによって、実際の動物を想像する可能性は低くなるのではないかと思います。
これらは、どちらも非常に有効な詩の言語となっています。前者は一瞬で映像的なイメージを喚起するものであり、後者は精神的なイメージ、二人の人間にこれまで何があったのか、今後どうしていこうとしているのかを想像させるような内容です。勿論、前者についても、イメージの先に「意味」を読み取ろうとした場合には、後者が指し示すような「意味」に結びつくことになるでしょう。しかし、詩は、いつも「意味」を書いているものではないため、受け取り方は本当に個人的なものとなると思います。
ちなみに、片桐ユズル氏の訳詞では、"I kissed goodbye"という部分がおそらく意図的に簡略化されています。僕の個人的な見解では、このフレーズは「おれはキスをする」というよりも、「さよならのキスをする」もっと言ってしまえば、「さよならをする」という意味に近いのではないかと考えています。
このようなことを総合的に考えると、僕が個人的に受け取った、Dylanが一節に込めたイメージは
「おれはさよならのキスをする ほえる動物に きみとおれを分ける境界線上の」
というものでありました。
これは僕自身の詩的美感で解釈したものですが、僕にとってはこのように訳すことで、非常に「意味」的な側面で心を打つ一節となったのです。
勿論、繰り返しになりますが、これはあくまでも僕の個人的な見解であり、真意のほどは、これを書いたDylanのみぞ知るわけですが。
最後にこのライン直後の歌詞について、訳詞に掲載されているものを引用します。
きみにわかるまい
おれのくるしんだ傷もおれが克服した苦痛も
おなじことが君についてもいえるだろうかきみの神聖さとか
きみの種類の愛とか
それがすごくざんねんだ
漢字平仮名の使い方についても訳者の意図があると思いますので、そのまま引用しています。
ちなみに、この作品が収録されている「Blood On The Tracks」というアルバムは、Dylanと妻Saraの破綻してゆく結婚生活がモチーフとなっていると言われています。みなさんはこの詩からどんな事を想像されるでしょうか。
このように、言葉の解釈はとても繊細で、たった一言であっても美しいイメージを作り出すことができたり、あるいは人生の深みに我々を誘ってくれるものであったりと、なんというかそれこそ言葉にできないような、素晴らしい芸術表現になり得ます。
逆に言えば、たった一言であっても人々に恐怖や不快感を与える事ができるのも、また言語の力です。
「日本の、自分たちを守るための軍隊」
"Japan Self-Defense Forces"
確かに英語に直せばこういうことになるのでしょう。
諸外国にこのように説明しているのだからという理由で、それを再度直訳し、「日本国防軍」とするのは、確かに誤りではありません。
しかし、敗戦の悲しみと絶望の中で教訓を学んだ日本国の先人が、その組織に「自衛隊」と名付けたこと、「自衛」という言葉の後に、「軍隊」という言葉から、「軍」の方ではなく、「隊」を採ったという言葉の技の繊細さを、忘れてはいけないと思います。
一つの言葉がどれ程の強い印象を人に与えるか、そういった言葉の力に無頓着な人間は、少なくとも多くの人を導く立場にはあってはならないと僕は思うのです。
ss
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