7.29.2011

続・岳物語

それで、それがなんでなんだろうなと考えてみる。

素晴らしいミュージシャンが日本にも沢山いることは知ってる。
大きいレコードレーベルから発売されているレコードを作っている、
誰もが知っているような人の中にも、美しい声だな、と思わせる人や、
戦ってるな、と伝わってくるような人、居る。

でも、俺はその音楽を買うかっていったら買わないだろうな。
なんでだろう?

日本語で歌われているから好きじゃないのかな。
だとしたら自分のやっていることには大きな矛盾があるな。

サウンドの質感が好きじゃないのかな。



自分が日本人でありながら日本人を軽視してるのだろうか。

・・・

もしかしたら、歴史と伝統の上に成り立っていないからなのかもしれない。
借り物の西洋音階の上で、借り物のアフリカンリズムの上で、借り物のポップミュージックを作り始めて40年くらい?
優れた日本の音楽人であっても、新作で新しいサウンドに挑戦、新しいリズムに挑戦と言われた時に、それまでの(その人物の)歴史と、将来に続いて行く時間の流れが見えない。
そんなことがある気がして。

勿論ポップミュージックってのは上澄みであって、多くの創作物の堆積となった山の頂きに遠くからでも確認できるような白い雪の部分みたいなもの。

だからポップミュージシャンは、新作をつくる毎に、山の頂きから頂きをピョンピョンと飛び渡るようにしていくもので、堆積である山の生成とは関連性がなくてもいいのかも知れない。

こんなことは当たり前のことで、きっと前述のレコードレーベルにしたって、ヘリコプターで直接山頂に到達して白い雪をかっさらっていくその効率を第一に考えているだろう。
それは、日本だけに限ったことではなく、海外であっても当然同様。
それが資本主義社会、功利主義社会ってもんだ。

でもさ、俺はここらで真剣に考えてみたいと思ってる。
自分の音楽が自分と似た様な考え方の人に、同じように受け入れられないことは、悲しい。
なにより自分が日本人の作る音楽に期待を持てず、小学校の時のようにドキ胸しないことは、もっと悲しい。切なさを消せやしない。

どうしたものかな。
自分はこれから何をどんな気持ちで作っていくべきか。

ある先輩ミュージシャンにこんなような話をしたら、
日本のポップスの歴史はそれだけ浅いわけだから、まだ未熟で、評価されるべき水準に達していない。それだけにこれから可能性があるんじゃないかな、なでしこJAPANのようにいつか世界をひっくり返すこともできるんじゃないか。
そう言っておられた。

これは逆転の発想で、確かに、片目から鱗。

そういうこともあるかも知れないな。
今日本の音楽世界で戦ってる人は木村和司であり、ラモスなのかも知れないな。
カズが続いて、ヒデが出てきて、いずれインテルに入る様な選手がでてくるように、そんなミュージシャンが現れるのかも知れないな。

でも悲しいのは、スポーツはそうやって偉大な選手を真っ直ぐに目標とすることができるけれど、日本の音楽界には憧れのスーパースターが居ないことだね。

おわり。

http://youtu.be/wZhkfwrxNOc

Bjorkの新作のPVがとても良かった。
音が視覚化されて直接的に脳のなんか後ろの方を擦ってくるみたいな刺激がありました。

言葉にしろ音にしろ、彫刻のような表現でありたいと、思っています。

ss

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