set list
1 のこされた僕ら we that remain
2 ママ僕の服はもう買わないで mama, don't buy my clothes anymore
3 new song
4 オニオンリング onion ring
5 車輪の下敷き crushed beneath the wheels
6 象の尻尾 elephant's tail
7 革命の仕組み structure of revolution
8 脱NYC escaping nyc
9 DIY精神 diy mentality
10 new song
(encore)
11 路上 on the road
みんな、終わらないダンスを見せてくれてありがとう。
初めて聴いてくれたみんなありがとう。
ライブを見て、ここに辿り着いた人がいたら嬉しいね。
また一緒に踊ろう。
次は9月18日、渋谷nob。
ss
8.28.2011
8.24.2011
8.20.2011
my top ten favourite albums of all time
Last year a young lady asked me what were my top ten favourite albums of all time. I cannot remember what I wrote down back then, but as of today the list is (probably) as follows:
1. Leonard Cohen - New Skin For The Old Ceremony
2. The Good Life - Black Out
3. Cursive - Domestica
4. Bob Dylan - Live 1964
5. Manic Street Preachers - The Holy Bible
6. The Velvet Teen - Elysium
7. Two Gallants - What The Toll Tells
8. The Gaslight Anthem - The '59 Sound
9. Bright Eyes - Lifted or The Story is in the Soil, Keep Your Ear to the Ground
10. Red Hot Chili Peppers - Blood Sugar Sex Magik
And I've only just realised this, but I've seen all of these artists live. It is a wonderful thing for the musicians you love to still be touring and putting out records.
[christopher]
1. Leonard Cohen - New Skin For The Old Ceremony
2. The Good Life - Black Out
3. Cursive - Domestica
4. Bob Dylan - Live 1964
5. Manic Street Preachers - The Holy Bible
6. The Velvet Teen - Elysium
7. Two Gallants - What The Toll Tells
8. The Gaslight Anthem - The '59 Sound
9. Bright Eyes - Lifted or The Story is in the Soil, Keep Your Ear to the Ground
10. Red Hot Chili Peppers - Blood Sugar Sex Magik
And I've only just realised this, but I've seen all of these artists live. It is a wonderful thing for the musicians you love to still be touring and putting out records.
[christopher]
8.08.2011
ポッキーを再生
YMOを観た。
中学生の時、YMOというグループの作品に初めて触れた時には、すでにグループは散開していた。
間もなく、突然「再生」したかと思うと、「TECHNODON」というミニマルなアルバムを発表してそしてまた沈黙した。
記憶が定かではない。もしかするとYMOの音楽に触れたのは「TECHNODON」が切っ掛けで、そこから遡るように過去の作品を掘り起こしていったのかも知れない。
このアルバム制作の過程をとらえたドキュメンタリー内容の本を、俺は何度も繰り返し読んで、ウイリアム・バロウズという人の事を知ったり、ジェニー・ホルツァーという人の言葉の意味を考えたり、ブレードランナーという映画について興味をもったりした。
何より、音楽作品を制作するにあたって、背景となる思想やディテールへのこだわり、アートワーク全体のコンセプト、それら全てをミニマルミュージックに反映させようとする姿勢に、何とも言えない刺激を受けた。
そして、山本耀司のデザインやニューヨークという街に想いを巡らせた。
しかし、知らない間にその「再生」の盛り上がりもどこかへ消えてしまっていた。
テクノミュージックは次の世代にバトンが渡され、次々に出てくる刺激的なサウンド、DJ達が過去を更新していった。
結局俺は一度もYMOのパフォーマンスを観る事なく、YMOの存在を忘れていた。
だからYMO名義でフジロックへの出演がアナウンスされた時に、俺の中で忘れていたものが突然思い出された。
これは観ておくべきだろうなと感じた。
布石はなんとなくあった。
昨年知り合えた先輩のギタリストから、突然YMOの影響を指摘され、自分では全く思ってもみなかったことだったが、懐かしく思って聞き返していた。
それに伴って、前述したドキュメンタリーの本を読み返したりもしていた。
そこに書かれていた内容は、中学生の時点では単なる未知への憧れだったが、今となってはより具体的に共感できるものとなっていたことにも気付いた。
自分の音楽に直接的な関わりがあるかどうかは分からないが、彼らの活動が、今の自分に繋がる一部を形作ってきたのは事実である。
結局のところ、フジロック行きを断念してしまった俺は、観なかった事で後悔するのを恐れた。
そして、YMO主催の野外フェス、world happiness 2011に、YMOを観るためだけに訪れたのである。(実際のところはYUKIとTOWA TEIのDJも観れた。TOWAについて語るべきことも沢山あるけれど、割愛)
演奏曲目を追った詳細な解説は控えることにする。
俺が現在のYMOのライブを観て感じた事。
・こういう種類の音楽は音が拡散してしまう野外より屋内の方が良いだろう。シンセサイザーで作り出した流麗なコードワークは会場後方に届く前に、立ちこめる雲のようにぼやけたものになってしまう。
・YMOの三人は大変優れた作曲家であり、音楽家ではあるものの、優れたパフォーマーとは言い難い。少なくとも現在のYMOの演奏においては。演奏家のカタルシスがオーディエンスの熱狂に直接的に繋がっていると実感。それを一瞬垣間見せてくれたのは、小山田圭吾の「千のナイフ」あたりでのギタープレイ。
・しかしその小山田圭吾を含めたサポートの演奏がYMOの音楽的魅力を正確に伝えていたかどうかは微妙。演奏力は勿論素晴らしい。しかしそもそも彼らのライブパフォーマンスは、演奏できるのにしない、あえてエレクトリックドラムを使用する、などといった抑制の中に魅力があるような気もするので、多くの部分を生楽器の演奏で再現してしまうと、緻密さが損なわれたような気がした。
・歌の力、というのは絶大なものがある。これは一番の強烈な発見かも知れない。YMOに「歌」が無かったからこそ感じたことである。
以上、批判的視点での省察。
そして今後の自分のためのメモ。
反面、素晴らしかった部分はとてもとても沢山あるが、此処には書かない。
俺、YMO観るためだけにフェスのチケット代全部払ったんです。
観た人だけが味わったものにしておきましょう。
アンコールの「東風」のイントロにはやはり鳥肌立ちましたよ。そういうこととか。
ss
中学生の時、YMOというグループの作品に初めて触れた時には、すでにグループは散開していた。
間もなく、突然「再生」したかと思うと、「TECHNODON」というミニマルなアルバムを発表してそしてまた沈黙した。
記憶が定かではない。もしかするとYMOの音楽に触れたのは「TECHNODON」が切っ掛けで、そこから遡るように過去の作品を掘り起こしていったのかも知れない。
このアルバム制作の過程をとらえたドキュメンタリー内容の本を、俺は何度も繰り返し読んで、ウイリアム・バロウズという人の事を知ったり、ジェニー・ホルツァーという人の言葉の意味を考えたり、ブレードランナーという映画について興味をもったりした。
何より、音楽作品を制作するにあたって、背景となる思想やディテールへのこだわり、アートワーク全体のコンセプト、それら全てをミニマルミュージックに反映させようとする姿勢に、何とも言えない刺激を受けた。
そして、山本耀司のデザインやニューヨークという街に想いを巡らせた。
しかし、知らない間にその「再生」の盛り上がりもどこかへ消えてしまっていた。
テクノミュージックは次の世代にバトンが渡され、次々に出てくる刺激的なサウンド、DJ達が過去を更新していった。
結局俺は一度もYMOのパフォーマンスを観る事なく、YMOの存在を忘れていた。
だからYMO名義でフジロックへの出演がアナウンスされた時に、俺の中で忘れていたものが突然思い出された。
これは観ておくべきだろうなと感じた。
布石はなんとなくあった。
昨年知り合えた先輩のギタリストから、突然YMOの影響を指摘され、自分では全く思ってもみなかったことだったが、懐かしく思って聞き返していた。
それに伴って、前述したドキュメンタリーの本を読み返したりもしていた。
そこに書かれていた内容は、中学生の時点では単なる未知への憧れだったが、今となってはより具体的に共感できるものとなっていたことにも気付いた。
自分の音楽に直接的な関わりがあるかどうかは分からないが、彼らの活動が、今の自分に繋がる一部を形作ってきたのは事実である。
結局のところ、フジロック行きを断念してしまった俺は、観なかった事で後悔するのを恐れた。
そして、YMO主催の野外フェス、world happiness 2011に、YMOを観るためだけに訪れたのである。(実際のところはYUKIとTOWA TEIのDJも観れた。TOWAについて語るべきことも沢山あるけれど、割愛)
演奏曲目を追った詳細な解説は控えることにする。
俺が現在のYMOのライブを観て感じた事。
・こういう種類の音楽は音が拡散してしまう野外より屋内の方が良いだろう。シンセサイザーで作り出した流麗なコードワークは会場後方に届く前に、立ちこめる雲のようにぼやけたものになってしまう。
・YMOの三人は大変優れた作曲家であり、音楽家ではあるものの、優れたパフォーマーとは言い難い。少なくとも現在のYMOの演奏においては。演奏家のカタルシスがオーディエンスの熱狂に直接的に繋がっていると実感。それを一瞬垣間見せてくれたのは、小山田圭吾の「千のナイフ」あたりでのギタープレイ。
・しかしその小山田圭吾を含めたサポートの演奏がYMOの音楽的魅力を正確に伝えていたかどうかは微妙。演奏力は勿論素晴らしい。しかしそもそも彼らのライブパフォーマンスは、演奏できるのにしない、あえてエレクトリックドラムを使用する、などといった抑制の中に魅力があるような気もするので、多くの部分を生楽器の演奏で再現してしまうと、緻密さが損なわれたような気がした。
・歌の力、というのは絶大なものがある。これは一番の強烈な発見かも知れない。YMOに「歌」が無かったからこそ感じたことである。
以上、批判的視点での省察。
そして今後の自分のためのメモ。
反面、素晴らしかった部分はとてもとても沢山あるが、此処には書かない。
俺、YMO観るためだけにフェスのチケット代全部払ったんです。
観た人だけが味わったものにしておきましょう。
アンコールの「東風」のイントロにはやはり鳥肌立ちましたよ。そういうこととか。
ss
8.07.2011
中川まりなへの回答を発端として
彫刻のような表現というのは、即ち、付加するのではなく削り取っていく表現ということであります。
そして、今一番興味があるのは、意味性の排除であります。
観念芸術の時代はもう終わっていますし、コンセプトが受け手に伝わるところまでを含めての表現形態っていうのは最近あまり興味が無くなってきています。
伝えたいメッセージがある、というのは、それは芸術としては嘘なんじゃないかと思ったりもします。
いつもいつも伝えたいメッセージがある人っているのだろうか?
前回の話じゃないけれど、安っぽい日本の音楽を作っている「アーティスト」の「アー」のアクセントが「ティ」より低い音で呼ばれるような人達は、最新作ではこの、「メッセージを伝えたい」ということを競って言っているけれど。
芸術表現が素晴らしいのはその意味性よりも、それ自体が「美」であることなんじゃないかと思います。
詩ならば、その言葉の裏にある意味ではなく、その並んだ言葉がただ美しいことで成立する。
絵画や音楽も本来的にはそういうものだったはずで、勿論、時代の要求、生活の要求からそれらは意味と結びつけられたり、商業と結びつけられたり、もしくは逆に意味から意図的に自由であろうとして破壊的であったりしてきたわけですが。
結局時を経ても残っているもの、それは意味性を排除して、現象として美しいからじゃないかと思うのです。
マルセル・デュシャンって人の有名な作品に「泉」ってのがあります。
あの作品の重要性は、一般的には意味に対するアンチテーゼという、ダダ的な視点で語られてきています。
勿論、そういうことは多分にあったのかもしれませんけれど、結局は匿名性を帯びた一つの白い便器が、空間に出現し、展示されることで、そのままの現象としての美しさがあったんじゃないか、デュシャンは芸術放棄を宣言したんじゃなくて、あれを美しいと思ったんじゃないかと想像します。
つまり、言いたいのは、僕は今あなたが何を考えて作るのか、ではなく、
あなたが見たいものが見たい。
僕がなんのために作るのかではなく、作ってしまったものを見たい。
自分にとっても価値の分からないものに命を賭けてみる、と岡本太郎氏は言っていました。
そこまで大袈裟なことじゃなくてもいい。
でも、誰かが見たがっているものを見せようと躍起になっている現代だからこそ、僕は、あなたが理由もなくただ見たいと思って作ってしまったものを、見たい。
そんな個人の視点に立脚した表現じゃなければ、これから面白いことなんて何もないような気がして。
そんな気がして。
僕も、僕の作品もこれからは真剣にそうあろうと思っているんです。
ss
そして、今一番興味があるのは、意味性の排除であります。
観念芸術の時代はもう終わっていますし、コンセプトが受け手に伝わるところまでを含めての表現形態っていうのは最近あまり興味が無くなってきています。
伝えたいメッセージがある、というのは、それは芸術としては嘘なんじゃないかと思ったりもします。
いつもいつも伝えたいメッセージがある人っているのだろうか?
前回の話じゃないけれど、安っぽい日本の音楽を作っている「アーティスト」の「アー」のアクセントが「ティ」より低い音で呼ばれるような人達は、最新作ではこの、「メッセージを伝えたい」ということを競って言っているけれど。
芸術表現が素晴らしいのはその意味性よりも、それ自体が「美」であることなんじゃないかと思います。
詩ならば、その言葉の裏にある意味ではなく、その並んだ言葉がただ美しいことで成立する。
絵画や音楽も本来的にはそういうものだったはずで、勿論、時代の要求、生活の要求からそれらは意味と結びつけられたり、商業と結びつけられたり、もしくは逆に意味から意図的に自由であろうとして破壊的であったりしてきたわけですが。
結局時を経ても残っているもの、それは意味性を排除して、現象として美しいからじゃないかと思うのです。
マルセル・デュシャンって人の有名な作品に「泉」ってのがあります。
あの作品の重要性は、一般的には意味に対するアンチテーゼという、ダダ的な視点で語られてきています。
勿論、そういうことは多分にあったのかもしれませんけれど、結局は匿名性を帯びた一つの白い便器が、空間に出現し、展示されることで、そのままの現象としての美しさがあったんじゃないか、デュシャンは芸術放棄を宣言したんじゃなくて、あれを美しいと思ったんじゃないかと想像します。
つまり、言いたいのは、僕は今あなたが何を考えて作るのか、ではなく、
あなたが見たいものが見たい。
僕がなんのために作るのかではなく、作ってしまったものを見たい。
自分にとっても価値の分からないものに命を賭けてみる、と岡本太郎氏は言っていました。
そこまで大袈裟なことじゃなくてもいい。
でも、誰かが見たがっているものを見せようと躍起になっている現代だからこそ、僕は、あなたが理由もなくただ見たいと思って作ってしまったものを、見たい。
そんな個人の視点に立脚した表現じゃなければ、これから面白いことなんて何もないような気がして。
そんな気がして。
僕も、僕の作品もこれからは真剣にそうあろうと思っているんです。
ss
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