8.07.2011

中川まりなへの回答を発端として

彫刻のような表現というのは、即ち、付加するのではなく削り取っていく表現ということであります。

そして、今一番興味があるのは、意味性の排除であります。

観念芸術の時代はもう終わっていますし、コンセプトが受け手に伝わるところまでを含めての表現形態っていうのは最近あまり興味が無くなってきています。

伝えたいメッセージがある、というのは、それは芸術としては嘘なんじゃないかと思ったりもします。

いつもいつも伝えたいメッセージがある人っているのだろうか?
前回の話じゃないけれど、安っぽい日本の音楽を作っている「アーティスト」の「アー」のアクセントが「ティ」より低い音で呼ばれるような人達は、最新作ではこの、「メッセージを伝えたい」ということを競って言っているけれど。

芸術表現が素晴らしいのはその意味性よりも、それ自体が「美」であることなんじゃないかと思います。

詩ならば、その言葉の裏にある意味ではなく、その並んだ言葉がただ美しいことで成立する。

絵画や音楽も本来的にはそういうものだったはずで、勿論、時代の要求、生活の要求からそれらは意味と結びつけられたり、商業と結びつけられたり、もしくは逆に意味から意図的に自由であろうとして破壊的であったりしてきたわけですが。

結局時を経ても残っているもの、それは意味性を排除して、現象として美しいからじゃないかと思うのです。

マルセル・デュシャンって人の有名な作品に「泉」ってのがあります。
あの作品の重要性は、一般的には意味に対するアンチテーゼという、ダダ的な視点で語られてきています。
勿論、そういうことは多分にあったのかもしれませんけれど、結局は匿名性を帯びた一つの白い便器が、空間に出現し、展示されることで、そのままの現象としての美しさがあったんじゃないか、デュシャンは芸術放棄を宣言したんじゃなくて、あれを美しいと思ったんじゃないかと想像します。

つまり、言いたいのは、僕は今あなたが何を考えて作るのか、ではなく、
あなたが見たいものが見たい。

僕がなんのために作るのかではなく、作ってしまったものを見たい。

自分にとっても価値の分からないものに命を賭けてみる、と岡本太郎氏は言っていました。

そこまで大袈裟なことじゃなくてもいい。

でも、誰かが見たがっているものを見せようと躍起になっている現代だからこそ、僕は、あなたが理由もなくただ見たいと思って作ってしまったものを、見たい。

そんな個人の視点に立脚した表現じゃなければ、これから面白いことなんて何もないような気がして。

そんな気がして。

僕も、僕の作品もこれからは真剣にそうあろうと思っているんです。

ss

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